マスコミの宣伝みたいに、信じきってしまう。今の日本がこれだ

精神的な豊かさ、心の豊かさとは何なのでしょうか。日本の伝統文化を知ることで精神的豊かになれました。

それは神の心と三位一体になる事でしょう。心の豊かさとはこころの豊かさとは何か神の心と三位一体になる。ケルト人

クウフウリン

 

世の中が変わっていた、今は気付く者はなし、それは偽善者となり果てて、いる事になる、野生動物と何等変わりは、無い。

日本が日本でなくなっていると、いうべきか。

 

マスコミに、なびいている?マスコミが、今の時代としているのは、国会とて、それと同じ。議員に、振り回されている、丁度宣伝に乗せられている、ようなもの。

全体にそれが、はっきり、表れている。ここには神が、付いて、いなかった、全てふりしているのである。神社は、囃し立てられたものに、過ぎない。それはどういうものか? 明治革命に際して、川上音二郎が、叫んだように、テレビでは宣伝に乗せられて、信じ切っている。薬くそばい、のように。

これを流行といっている。流行りというのは、価値観があると、信じるからで、まったく無駄使いになる事、は後で判る事、今の国会で、値上げの連続には、国会により、囃し立てて、いると、いってもよい。マスコミの宣伝みたいに、信じきってしまう。今の日本がこれだ。これ等はすべて偽善者とは、気付かずにいる、マスコミは偽善者、司法、警察、公務員は、偽善者で人を、信じ込ませている、これが判るには感性が、高くなければ、判る事は、ないだろう。それは鋭い感性の現れでもあります。他の人に見えない ... もあるでしょう。

それは鋭い感性の現れでもあります。他の人に見えない ... もあるでしょう。

感性の高いのは誰なんですか?感性というのは、感覚や価値観だと捉えています。警察官なら、という内容は、それぞれの仕事をしているだけで、これが感性での行いとは言えないと思います。

国民に害を与えているだけ、金の為に警察は仕事をしているだけで、これが感性での行いとは言えないと思います。取り締まりと罰金は、私服をこ゚やしているに、過ぎないでしょう。

感性とは、人の心を動かせる事ではありません、宣伝しているに過ぎないのです。藝能界の、人気者は、囃し立てているに過ぎないのです。安倍政治に新しいとしているのは、ただの宣伝しているに過ぎないのです。

神の使いは楽市楽座で、豊かになり、近江商人が生まれています。今の道の駅も、神の使いが、すべてに、あたえた、豊かさでしたが、ここに偽善者が、加わると、駄目にしていしまう事になるでしょう。偽善者とは公務員も類し、囃し立てて、しまいます。日本が日本でなくなったのは、偽善者が、ほとんど、でしょう。国を豊かに出来るのは、神と天皇しか、いないでしょう。仁徳天皇が、税の撤廃と、法の撤廃を、国民が豊かになるまで、続けたのが、国を豊かに出来るのは、神と天皇しか、いないでしょう。それは対等になる事なのです。

 

 

 

 

 

 


夜な夜な現れる、出るという恐ろしき妖怪

何か得体のしれないものがつきまとわれる、それは一族子孫に三代たたるという、怖ろしき、事がやってくる。それは罪を犯していた報いとも言われている。

先祖の因縁について - よく先祖の悪行は子孫に祟ると言います... 祟りや因果は子供や孫に行く。

祟りや因果は本人じゃなく後の世代に行くって言います

それはあまりにも可哀想すぎませんか?

自分の因縁を返すために、そこを選んで生まれてる。

「因縁は三代続く」 と、迷信(古くからの言い

その因縁を作った魂が子孫としてまたその家系に生まれてるだけだ。だから自業自得。

 

先祖からの因縁 ... こういう悪い因縁はどこかで断ち切ることがない限り、自分の子孫にもずっと災いが降りかかっていくということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本では夜須、ウガヤ丑王の時

 

前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年–紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安

劉安 - 『淮南子』の編著者として知られる。
漢の高祖(劉邦)の七男・淮南?王劉長の長子。劉不害(劉建の父)、劉遷の父。
紀元前174年、父・劉長は柴奇の謀反に加わったとして流罪となりその地で絶食死したが、劉長の4人の子は伯父文帝によってすべて列侯に封ぜられた。劉安も紀元前172年に阜陵侯となり、ついで紀元前164年には淮南王に転じた。

景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配をしたため、劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。

劉安は景帝を継いだ武帝の匈奴討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった[1]。これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削減されたことで、劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。

劉安の著書『淮南子』の「泰族訓」には「桀紂を王とはしない。湯武を放伐したとはしない」という記述がある[2]。これは殷周革命を肯定する孟子の説と同様である。続く文章でも君主の無道を武力で諫めることの正統性を主張していた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%AE%89



この後、漢の武帝により、武夷丑王は十万人と、中国を離れ、時は紀元前火百十一年前、着いた日本では夜須、ウガヤ丑王の時、である。
近年農地整備事業に合わせ、遺跡調査が、行われ、ここ夜須では、灰色硬質磁器が、出土、祭祀の跡が、わかった。
祭祀というのは此の時? はじまっている事が、研究により、解明した。
日本について、知るには、夜須無くしては、見えてこない。

明の李時珍『本草綱目』でも豆腐を劉安の発明としている
劉安 - 『淮南子』の編著者として知られる。

淮南王(わいなんおう)は、中国における諸侯王の王号。淮南王に封じられた、あるいは称した人物には、以下の例が挙げられる。

劉邦の末子であった淮南王劉長は文帝の異母弟という。
前漢の時代に八公という八人の仙人の教えで昇天した神仙。漢の高祖の孫であり、武帝の時代に淮南王に封じられ、『淮南子(えなんじ)』を編纂したことで有名。
『神仙伝』によれば、劉安は父の領地を受け継いで王となったが、決しておごらず、儒学を尊重し、天下の優れた人士を招いて、その数は数千人に上ったという。

劉安の 著した. 「原道」とい. う章の なか に、. 夫道者、覆天載地、廓四方、柝八極、高不可際、深不可測、. 包裹天地.
「淮南王劉安」(えなんおうりゅうあん・紀元前179年〜紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書
劉安に「枕中鴻宝苑秘書」があったという、蓋し神仙・黄白(錬金術)の事をかいたもの。

劉安に 越から献納甘草  呉は白雉を献納した。

倭人についての確実な初出は、75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗・慣習・言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「濊人」とは区別されたものとして書かれている。

夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、また禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称している。

 

呉人としての倭人と夏人の違い Name:児島宮考古学研究室   2018/10/19(金) 10:53

呉人としての倭人

現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、呉が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、又、「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もある>

『論衡』における倭人[編集]

後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡[15]』には「倭人」の名がみえる。以下に、本文を記す。


「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越常獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

 

越裳(えっしょう)は雉(キジ)を献じ、倭人は暢草を貢ず。

『漢書』では「越裳氏」、『論衡』恢国篇では「越常」(えつじょう)と表記 ...


裳(も)とは - コトバンク


裙とも書く。女子用和服の一つ。女子の上衣下衣の2部式被服構成の時代に,下衣として用いられたもの。その形態は5〜6世紀に盛行した埴輪土偶の女子像にみられ,奈良時代の礼服 (らいふく) の際には重ね裳の風習があったが,承和7 (840) 年に勅令で禁じられた。この結果,袴の上に裳を当て裾を長く引くこととなり,平安時代の女房装束が完成してからは,引腰 (飾り紐) の美しさが女装の美しさとなった。さらに鎌倉時代以降,女装における袴の不便と宮中儀式の衰退につれて,裳的な湯巻や裳と袴を兼用する裳袴 (もばかま) というものができることとなった。しかし盛装には形態が変っても裳を略することはなかった。

も【×裳】

1 古代、腰から下にまとった衣服の総称。
2 律令制の男子の礼服で、表袴(うえのはかま)の上につけたもの。
3 平安時代以後の女房の装束で、表着(うわぎ)や袿(うちき)の上に、腰部から下の後方だけにまとった服。
4 僧侶が腰につける衣。

も【裳】


古代の上流階級女子がはいたロングスカート状の衣服,および平安時代以降女房装束(十二単)に着装された服具。古墳時代の女子人物埴輪にあらわされた上下二部式衣服の腰衣が,《古事記》に見られる裳に当たると思われる。飛鳥時代の裳については,聖徳太子の薨去後,冥福を祈って作られた《天寿国繡帳(てんじゆこくしゆうちよう)》に立縞と横縞の女子の裳が描かれている。《万葉集》に,はねず色や紅の赤裳というものが散見し,高松塚古墳壁画女子像の裳は立縞文様となっていて裾に飾襞(かざりひだ)がつけられている。

 

世界は同じで、象は三つの象に、白雉は憩いの場にあり

 

Shang Shu Da Chuan ":あなたが王になったとき、苗木と茎があり、スパイク、大きな余剰車、長い詰め物箱、人が持っていたのと同じです。 王趙は、公共のお金を尋ねた:スパイクの3つの苗、世界は同じですか? Yueshangの再翻訳がある場合 。 九寨溝の南には八江湖があり、周珠州は6年かかり、礼儀は楽しく、世界は同じで、象は三つの象によって再翻訳され、白雉は憩いの場にあり、山と川は深く、音は通ることができないので、王朝に王朝に戻って、公衆に戻って曰く:徳徳徳左焉 なぜ私はこの贈り物を手に入れますか? それは要求をする:私は私の国のサソリで命じられた:長い時間、誰も空には、風と雨(暴力的な風)、中国に聖人ですか? いくつかはそれに向かって急いでいます。 周功は、最初の王の神と呼ばれる王の王であり、神殿にお勧めします。 週はどちらも弱いので少しです。

世界は同じで、象は三つの象によって再翻訳され、白雉は憩いの場にあり
越裳氏 ( えっしょうし ) が指南に於けると同じだ
中国の古典で記録された古代の部族であり、特定の場所は確認されていません。
Yueshangは古代中国の伝説の国です。
"Changshang"の名前は、 " Shang Shu Da Chuan "で初めて見られました。 周 ong州は6年間の写真撮影を行い、越光國は西周王朝に 白い飾りを施し、周功は5人の独特の大使を国に返して帰国させた。

その後、 孔子が「 春と秋 」を作ったとき、歌手は荒涼とした土地であったほど文化遺物は準備されていなかったため、配置されなかった。

三国時代には、 蘇州によって設立された地方郡の管轄区域の1つの郡が越County郡と呼ばれた。
、南は狐の良い国(すなわち、 都市 )に南。国(または郡) :曰越裳、曰交趾、曰朱鸢、曰武宁、釈福、曰宁海、曰阳海、曰陆海、曰怀欢、曰九真、季日南、日真Ding、Qi Wenlang、Qi Guilin、およびRixiang Countyは、弟のルールに分かれています。
^ "Lingnan責任、白い噂の伝記":周Cheng王は、男性の王は周に白雉を提供する、より多くの歌手を呼び出すために彼の大臣を命じた。 彼の言葉は不合理で、周功は人々に再翻訳をさせ、その後交信する。 周総書記は、「どこにあるの?」歌手は「今日、停滞はなく、海は3年間も揺れていない」と語った。


黄色の天皇が国を建て、 嘉義は白tableのテーブルからは遠いですが、Moは南西に属し、部族は、、曰趾、 越 、淮寧、寧海、紅海、唐泉、新昌、平原、文楽、九寨天、寧南、淮渓、九?はすべてアクセス不可能です。

5.
^ "Da Yue Shi Ji Quan Shu・Wai Ji・Hong Pang Ji":国は南シナ海の東、 Bayuへの西、Dongting Lakeへの北、Hu Sunguoへの南(すなわち都市 )、15の部分に分かれている。曰交趾、曰朱鸢、曰武宁、釈福、、曰越裳、曰宁海、曰陽泉、曰陸海、曰武定、曰怀欢、曰九真、曰平文、曰新兴、曰九?君主の臣下の臣下。
今日は広東と広西の両方に広がっている天皇谕 "Nan Yue"が広がっています
 ハッカン は、キジ目キジ科に分類される鳥類の  Name:児島宮考古学研究室  HOME

 「鬯草」…鬯:々畫(良い香りのする草)の一種。鬱金香の事。 △砲いざけ(良い香りのする酒)。黒黍(くろきび)と鬱金香を混ぜて醸した酒。神に供えたり、祭りに用いたりする。

「鬯」字は酒の一種で、秬(黒黍)で醸造した酒に香草の鬱金を混ぜた香酒を指す。古代中国の祭祀において神を降ろすのに用いられた。この酒を「秬鬯」「鬱鬯」「鬱鬯酒」などともいう。また「鬯草」といい、「鬯」字は鬱金の別名としても用いられる(別の香草という説もある)。「鬯草」は後漢の王充『論衡』に周代、倭人が献上したとの記述があることで知られる。

その字形は器である「凵」の中に黒黍の実を表す「米」があり、それをすくい取る「匕」から構成される会意文字である。

 偏旁の意符としては黒黍や酒、香草に関する字に使われているが、多くはない。

 鬯部はこのような意符を構成要素にもつ少数の漢字を収める。(wikipedia 鬯部より)
 ハッカン (白鷴、学名:Lophura nycthemera)は、キジ目キジ科に分類される鳥類の一種。中国南部からベトナムの山岳地帯に生息。

周の成王の時代(前1021年? - 前1002年?)に鬯草という良い香りのする酒を貢いだ。
越裳の人からは、ハッカンを成王に献じて、双方を薬として服用しましたが、効果が得られず、結局若くして崩御したと推測ができます。

これまでの学術研究では、この「倭人」は現在の日本人を指す、とされてきた。しかし、それは違うと思う。

 

 


天神さまのと、わらべ歌にも、伝わるように、日本独特の、歴史では、ありません

天皇は日本だけ、伝わっていますが、それは日本に、天皇即ち、天神と呼ばれているのが、伝わっていた明かしです。

ここで天神さまのと、わらべ歌にも、伝わるように、日本独特の、歴史では、ありません。

そこで今回は、天神の、いわれについて、のべてみよう。

教育では、教えられ、なかった、

JUGEMテーマ:学問・学校

、でしょう。それは分からなかった、という事です。

天神という名は、日本に色々、伝わっているが、これが解明した児島宮歴研会は、三年前暮れに、中国福建省屛山の地鉄工事の時、呉越の戦いで知られる、越王勾践の越城と呉城の、近くに、末裔の楚国に、越国は、、、、敗れ、ビン越と名乗り、丁度、楚国の項羽と、劉邦の戦で一時は、劉邦が危機になった時、越国の無渚王、が、助けたので、楚国の項羽は敗北、した。これに劉邦は国の名を、漢国としたので、感謝した劉邦は、越王と城を建てる事を、許可されたのが、平山という地の、今の地鉄平山駅の、治城という事が、判明し、越国にゆかりの、福岡県朝倉郡夜須(現筑前町)篠隈の児島宮歴研会が解明したので、日本の天神ゆかりが、、今の地鉄平山駅にある事が判りました。

日本の考古学協会は、まだ何も、解明は、していませんでした。

 

ここからは、天神について、児島宮系譜に深く関係する、神のすべてが、関係している事を突き充てるあてる事ができました。

あまりにも膨大な資料なので、説明しても、むずかしいので一部、に焦点をあてて、

解説してまいりたいと思います。

 

児島宮系譜に深く関係する、神のすべてが、関係しています、児島宮系譜は、児島高徳の作「太平記」の、呉越の戦いで知られる、越王勾践とケルトの発祥に関わります、このケルト文字か紋章が三年前の、今の地鉄平山駅の、治城に関係している事が判りました。それはビン越の発祥と、関わっていた事も解りました。

このビン越治城の発掘調査で、ずいぶん前に朝倉夜須では農地整備事業で、夜須広域遺跡が、殆ど、全域にわたって、広がっている事が、判りました。

この灰色硬質土器の窯が夜須窯というが、何故か朝倉窯と、呼ばれる事になっていた。

この灰色硬質土器に、ケルト文字が刻印されている事が、何の目的か、教育委員会文化財課は、突き止めては、いませんでした。

NHKテレビ報道が撮影しても、裏付けできる学者が居ないという事で、没とされた。

 

解明出来たのは、ビン越治城の発掘調査時、雲巻き軒丸瓦の模様に、ケルト文字と深く関係していたのです、丁度同じ時期、京都の古美術商の売り立てで、奈良の神武地の近郊の瓦という、後で確かめて、聴きだした、結果である。

つぎから次へと、表れた、灰色硬質土器に、ケルト文字の刻印が有力な、手がかりとなったのは、云うまでもありません。

歴史的な大発見なのに、インターネットは、追及されていなかった。

遅れた古代史がここに浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 


佐久間信盛の兜櫃に幹とあり、乾(いぬい)

JUGEMテーマ:学問・学校

(いぬい)

「乾、助次郎  いぬい」

佐久間右衛門尉 (1)仲介役 次の記事の「乾助次郎」という人物は誰かということが問題となると思います。和平の仲介役という役目を果たしたものという感じがします。

佐久間信盛の先々代は、佐久間孫五郎、助安とも、名乗っている。

堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。

 

『・・・・・佐久間右衛門尉、子息甚九郎、・・・・・』〈甫庵信長記〉

 

「佐久間甚九郎信盛」が、「宗易」と重なったのは「乾助次郎」のもっていた葉茶壷は「利休」から出たものかもしれないという。 座敷 をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に 佐久間甚九郎 御茶上申し、終日の会なり。 同三日に帰洛の翌。

善照寺砦の城将の佐久間信盛は、いま述べている天正六年のこの佐久間甚九郎が信長公に茶を上申した事件の ...『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し、乾助次郎には葉茶壺を持たせ、伊丹を忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉

佐久間甚九郎信盛は佐久間宗家ではなかった、それは佐久間孫五郎、助安、の時から、佐久間と名乗っていたが、姫路の墓には、詳しく説明書が残されている。助安について、京の公家と、記され、名も藤原助安と、されている。

織田家系図にも、助安は

佐久間孫五郎助安、民部丞を申す事相違有るべから ず、宜しく口宣奏請の状、件の如し「 文安三年八月三日 」 ... http://angelcymeeke.web.fc2.com/iyo_yamasaki/a_2.html 佐久間盛保孫五郎助安民部左近文安頃

 城主の名前は、盛保のほかに、藤原道有、藤原助安の名が伝わっている。

つながりが、近衛中将助安という人物が、熱田社の神主熱田千秋持季と縁があるといわれています。近衛中将助安家の瓦。

 

 佐久間信盛が信長を、防護した旗さしが、ここにあります。

 ケルト模様の羽織に星が見える 

長篠合戦図屏風の中で最も古い作品

 佐久間隊六法星に、はさまれて、守られている信長

 

これで日本が判るケルトの乾とは? 

(けん)は八卦の一つ。卦の形は Ken.png であり、三爻がすべて陽。または六十四卦の一つであり、為天。上で構成される。君などを象徴する。方角としては北西の方角になり、戌(いぬ)と亥(い)の間であることからは「いぬい」とも読まれる。とは?歴史民俗用語。 方角の名。戌と亥との中間の方角。北西の方角。 ... いぬ い−

 

佐久間信盛の兜櫃に幹とあり、いぬい) ...... 特にヨーロッパでの神は、今から二千六百十七年前に、ケルト人の、おがむ、文字が、始って、から、それぞれの国々が、神を、通して、そういえば、日本の紀元前も、何か似ていますね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古代の実年代は確定していないが、児島宮は、確定している

皇紀を実年に換算すると古代天皇の在位年はどうなるか?

歴史の事象に対する実年代について、科学的年代測定が、それまで考古学者が積み上げ推論して来た年代観を打ち破って、年代を遡らせた結果となっている。

古代の実年代は、確定出来ていない歴博が日本の実年代を混迷させている。

確定の基準始まりが、なくては、確定には至らない。

古代の実年代に当たっては、ウガヤ年代であり、不可解なウガヤとは、一体何だろう、これまで言われている歴博は、炭素年代法によるとあるが、時期に至っては、ゼロに等しい。木では、年代は確率等できる事は無い。親が先か子が先か程度でしかない。決めてがないのである。

日本史で云えば、神武時期は、歴博実年代とすれば、紀元前八百年遡る等、とんでもない、素人程度だ、学者では無い。フィクション作家か物好きか。

勝手に樹と、神武を、くっつけて、いる樹の炭素測定、だとすれば年代すべてに、誤算が生じて、しまう。あまりにも勝手過ぎて居る古代史となる。

日本の神、やおよろずの神々とは、歴博実年代とすれば、紀元前八百年遡る等、これでは、とんでもない、素人程度だ、学者では無い。

須恵器にあっても、須恵器は勝手に地名を掛け合わせていて、日本語にも、ならない粗末さである。須恵器が五世紀後半とは、いやはや、誤算過ぎている。朝鮮と、くっつけている、照らし合わせている、それも、NHK歴史ドラマと同じ、フィクション。まぜこみ

今の天皇秘話も、朝鮮と、くっつけている、照らし合わせている、それも、NHK歴史ドラマと同じ、フィクション。まぜこみ。

 

 

 

 

 

 

 

 


信盛」が、「宗易」と重なったのは「乾助次郎」のもっていた葉茶壷

次の記事の「乾助次郎」という人物は誰かということ

 

乾助次郎
この人物について探らなければならなくなりました。

『(十一)・・・・・翌日(九月)廿八日、若江御泊。
  廿九日、早朝より天王寺へ御成(おなり)、 佐久間右衛門所に暫時御休息なされ、住吉社家に至って御座を移され、その時天王寺より住吉の間御鷹つかわされ候  晦日には払暁より堺の津へ御成り。・・・・それより今井宗久所へ御成り・・・・御帰宗陽・宗及・道叱三人の私宅・・・・・住吉社家に至って御帰宅。・・・・・・
{寅}十月朔日、住吉より御帰洛。安見新七郎所に暫し御休息なされ・・翌日、住阿弥 御留守あしく仕候に付いて御成敗。併に・・・・さいと申す女、・・・同罪に仰せ付けらる。』  となっています。

 

1、 佐久間右衛門信盛(甚九郎 法ΑΑΑΑ卻祕叩咾埜凝槌中と交錯した。
2、 佐久間右衛門信盛(甚九郎◆法
3、 佐久間右衛門信盛(甚九郎)
 

この助次郎が乾助次郎で利休と特別な関係があって、その意思を汲んで和平の仲介役になったと考えられます。

〈信長公記〉の宗易は利休,蛤患彜嵜啅縅困鯢修錣靴討い襪塙佑┐蕕譴泙后

4、信長に追放された佐久間信盛こそ、この甚九郎ではないかと思われます。乾助次郎として仲介
をしたことも問題になったものと思われます。佐久間甚九郎は利久の高弟といわれる山上宗二でその
断片が語られたのではないかとも思われ、それなら今日の茶道の歴史の理解は甚九郎に依っている
といえる、その存在は大きいのではないかというのが結論です。

 

 

        

 

 この鎧櫃は佐久間信盛の鎧櫃である事が、紋章により判りました。

  

 

 sainanyoke

 

 

 五枚胴

 

 

 

 兜

 

 

 


佐久間信盛の鎧兜見つかる

佐久間信盛の鎧兜には、家紋が、一致し、鎧櫃に、茶道に記載の幹と、付けられていた。

茶道に記載の「幹」は、

佐久間甚九郎は宗易 父佐久間信盛の兜櫃に幹とあり、(いぬい)

 

佐久間甚九郎の記した、とちりき、にも、驕りの種に成るべきはただ数寄道なり。
侘びて心意の気味を宗(むね)とし、珍肴奇物を事とせず、安らかなる道具などを、清浄に成る
べくんば、数寄は珠絶(しゅぜつ)の慰めたるべく候。それ武士の道は・・・・・・・国主は人の賢愚
剛弱、知の明、行の果、信の篤、国器の大小等よく知って、天地万物一体の仁を守るこそ、その
務めとは申すべく候や、
と申し上げければ、さても残るところ所なく云いつるものかなと、再三御褒美ありけるとかや。』頃


〈甫庵信長記〉幹前立て前立て炎

sainanyoke

 

兜五枚胴桃山◇五枚胴 鎧部品 

 

◇桃山◇袖一対 鎧部品

 

「乾、助次郎  いぬい」

佐久間右衛門尉 (1)仲介役 次の記事の「乾助次郎」という人物は誰かということが問題となると思います。和平の仲介役という役目を果たしたものという感じがします。

茶人
天正六年、信長公が九鬼の大船を見たあと、

   『かくて、堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。

 

『・・・・・佐久間右衛門尉、子息甚九郎、・・・・・』〈甫庵信長記〉

 

佐久間甚九郎信盛」が、「宗易」と重なったのは「乾助次郎」のもっていた葉茶壷は「利休」から出たものかもしれないという。 座敷 をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に 佐久間甚九郎 御茶上申し、終日の会なり。 同三日に帰洛の翌。

 

 

 

 


乾、助次郎 「宗易」が「宗陽」と変わっています。 「佐久間甚九郎」 宗易と名付けれ

佐久間甚九郎は宗易 父佐久間信盛の兜櫃に幹とあり、(いぬい)

 

佐久間甚九郎の記した、とちりき、にも、驕りの種に成るべきはただ数寄道なり。
侘びて心意の気味を宗(むね)とし、珍肴奇物を事とせず、安らかなる道具などを、清浄に成る
べくんば、数寄は珠絶(しゅぜつ)の慰めたるべく候。それ武士の道は・・・・・・・国主は人の賢愚
剛弱、知の明、行の果、信の篤、国器の大小等よく知って、天地万物一体の仁を守るこそ、その
務めとは申すべく候や、
と申し上げければ、さても残るところ所なく云いつるものかなと、再三御褒美ありけるとかや。』頃
〈甫庵信長記〉

ということで茶人とされる人物が出てきます。この茶人間の関係です。三位一体

 

佐久間甚九郎と千少庵の関係は、清水寺のふくろう手水鉢、を、佐久間甚九郎に願い下げ受けたとあり、

  

 

    

 

「国主は人の賢愚
剛弱、知の明、行の果、信の篤、国器の大小等よく知って、天地万物一体の仁を守るこそ」

 

佐久間信盛こそ、この甚九郎ではないかと思われます。乾助次郎として仲介
をしたことも問題になったものと思われます。佐久間甚九郎は利久の高弟といわれる山上宗二でその
断片が語られたのではないかとも思われ、それなら今日の茶道の歴史の理解は甚九郎に依っている
といえる、

                    

 

     

乾、助次郎事、乾、助次郎鎧櫃 

 

佐久間孫五郎は近衛中将助安で、その子、佐久間甚九郎信晴 その子甚九郎信盛、その子甚九郎信栄とある。

 

天・健・馬・首・父・君などを象徴する。方角としては北西の方角になり、(いぬ)と(い)の間であることから乾は「いぬい」とも読まれる。

伏羲先天八卦における次序は一であり、方位は四正卦の一つでに配される。陰陽消息は陽が極まったところである。

 

いぬい

八卦
後天図
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先天図
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六十四卦
上経(1-30
下経(31-64

(けん)は八卦の一つ。卦の形はKen.pngであり、三がすべて陽。または六十四卦の一つであり、乾為天。乾下乾上で構成される。

 

とは?歴史民俗用語。 方角の名。戌と亥との中間の方角。北西の方角。

乾と書いて、いぬいと読むのはなぜ??? - 古代中国で、東西南北のほかに

 

それで、南北に走る経線を子午線と言ったりします。 ところがこれでは、西北(現在の理科的な表現では、南北から言うので、北西だが、古典的な表現では、東西が先、それで、東北とか西南戦争とか都の西北とか言う)などの、45度刻みの方角を表せない、 まぁ、二文字で言えばすむことなのですが、そのための一文字の漢字表現もあって、 西北が「」、これは十二支方式で言うと、戌(いぬ)と亥(い)の中間になるので「いぬい」、 東南だと「坤」(音読み・コン)ですが、未(ひつじ)と申(さる)の中間で「ひつじさる」 ...

 

 

 

 

 

 

 


佐久間信栄子孫九郎 甚九郎

佐久間 信栄(さくま のぶひで、弘治2年(1556年) - 寛永8年11月23日(1632年1月14日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。佐久間信盛の長男、信実の兄。子に娘(織田貞置室)、娘(佐久間信勝室)、娘(安見元勝室)。養子に信実、信勝、信重。通称は甚九郎。駿河守を自称し、剃髪後は不干斎と号した。諱は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている。

 

 

佐久間信栄子孫九郎 甚九郎は、九州筑前に下り、その地の寺の過去帳に、孫九郎 甚九郎が書き留めていた事を突き止めた、これら二家とも、位牌あり、孫九郎 甚九郎は、亡くなっては、いなかった。寛永系譜長記載、には、

これは黒田長政公も、知っていた、それは四の熊の地名の起こりと、なっていた事で、解る、この時期、栗山大膳に因み、大善松と名付けられたとある。

 

亀山市史 考古編 - 亀山市歴史博物館 蒲生氏郷(がもううじさと)らが攻撃し、3月に落城、その後織田信雄(おだのぶかつ)が入城し家臣佐久間甚九郎正勝(さくまじんくろうまさかつ)(信栄)に守備に当たらせた。 天正12年(1584)3月の攻防戦では、佐久間信栄が守備、蒲生氏郷、甲賀

 

佐久間右衛門尉 http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage21.htm  織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛


(1)仲介役
  次の記事の「乾助次郎」という人物は誰かということが問題となると思います。和平の仲介役という
役目を果たしたものという感じがします。

    『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ、伊丹を
    忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉

下線のところ脚注があり、『荒木村重は茶人、利久の弟子。』となっています。一応誰も茶人ではないか
しかも利休に近い人ではないか、ということをすぐ思い浮かべるから、荒木は利休の弟子という親切な脚注
になったと思われます。
      乾助次郎
 この人物について探らなければならなくなりました。いろいろそれらしいものが伏線として出されて
いうのではないかと思いますが、理屈をつけて近づいていきたいと思います。まず表記ですが
  「乾」は〈信長公記〉首巻の「討死」衆に

    『坂井彦右衛門・黒部源介・野村・海老(えび)半兵衛・(いぬい)丹後守・山口勘兵衛
    ・堤伊予、』
 
 が出てきて、これがとくに重要ということがわかるのは、信長公と「奇宿」で出てきた「堤源介」という
合成語句があったからですが「坂井」も「野村」も「えび」も「山口」も「半兵衛」なども重要な人物と結び
きています。つまり、著者太田牛一をとりまいている人物の姓か名と結びついるという予感がするもので
した。したがってこの「乾」も一族とかいう重要な人物であるのいっていると取れます。
まずこの人物は
       〕休の高弟である。
       当時有名人物であり当代記によれば侍である
       次男らしい
       ぁ峇ァ廚禄斗弯擁で、もう一人いる乾姓の人物「乾平右衛門」も花(鼻)隈で池田
        と出てくるので、森と近いかもしれず、この乾は重要とみられている。
       ツ電朕澄と近いことは津田宗及と近いかもしれない
       
 などが考えられます。
 ,砲弔い討
   葉茶壷を持たせ、という表現から「荒木村重は茶人利久の弟子。」〈甫庵信長記脚注〉と書か
れているので利久の高弟くらいの一人である、と推測ができます。同じく「葉茶壷」を調べておきますと
    松花・・・・・・・葉茶壷で大名物ーーこれは信長公から信忠卿が拝領。
    松島・・・・・・・葉茶壷の名。松島のように多くの隆起があった。
    三日月・・・・・葉茶壷。松島とならぶ無双の名物
 松島と三日月は天正六年荒木村重ら十一人が集まったとき床の左右にあったものです。これは
関係がないかもしれませんが念のための脱線です。ただこのとき「葉茶壷」が

  長谷河丹波守、長谷河宗仁、福富平左衛門、矢部善七郎、荒木摂津守、惟住五郎左衛門、
  万見仙千代、

などと接近しています。首巻に「乾丹後守」が出てきましたので
     「長谷川・丹波守」は「乾・丹波守」、「長谷川・宗仁」は「乾・宗仁」
にもなりかねません。

(2)茶人
天正六年、信長公が九鬼の大船を見たあと、

   『かくて、堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。
         (一行はなす))
   二位法印、その御事に候、
    国主等此の道上手に成りなば、世間物事奢侈(おごり)大過して且つは武道も忽(ゆるがせ)
   に成り申すべし。それより事発(おこ)って、或は京都職人方の若き者、或は芸才の弟子共、
   彼の過高(身分に過ぎたこと)を自然に似せて(普通に思って)、富めるも貧しきも、だてをのみ
   嗜むべし。驕りの種に成るべきはただ数寄道なり。
    侘びて心意の気味を宗(むね)とし、珍肴奇物を事とせず、安らかなる道具などを、清浄に成る
   べくんば、数寄は珠絶(しゅぜつ)の慰めたるべく候。それ武士の道は・・・・・・・国主は人の賢愚
   剛弱、知の明、行の果、信の篤、国器の大小等よく知って、天地万物一体の仁を守るこそ、その
   務めとは申すべく候や、
    と申し上げければ、さても残るところ所なく云いつるものかなと、再三御褒美ありけるとかや。』頃
   〈甫庵信長記〉

 ということで茶人とされる人物が出てきます。この茶人間の関係ですが、一見ではそれぞれ別人と取れ
ます。著者が適当に書いたという立場であればそれで合っているともいえますが、後年の読者に対して
親切に書いている、という立場に立てば、それですんなり通りすぎてもよいのかということになってきます。
第一〈信長公記〉の記事と内容が違っているので、前者でよいとはいえないようです。
〈信長公記〉では 九鬼大船を見たあと、

   『それより今井宗久所へ御成。過分忝き次第、後代の面目なり。御茶まいり、御帰りに
           宗陽・宗及・道叱三人の私宅
   へ忝くも御立ち寄りなされ、住吉社家に至つて御帰宅。』

 となっています。「宗易」が「宗陽」と変わっています。意味がよくわからないので「宗陽」という人の
言動があれば、それは利休のものだと取ってもよいということかと思われます。〈信長公記〉の記事から
みれば、三人の座敷を見たという●は政庁内のどこかに設えられた場所ではないことはわかります。
また甫庵の記事では今井宗久に進上を命じて、宗久の座敷(私宅)には行ったのかどうかがはっきり
判らなかったわけですが、ここで、信長公が訪れたのは、
       「宗久」「宗陽?」「宗及」「道叱」
 の所だということがわかりました。
甫庵の記事と対比してみなすと
      〈信長公記〉・・・・・・   「宗久」  「宗陽?」  「宗及」  「道叱」  「住吉社家」

      〈甫庵信長記〉 ・・・   「宗久」  「宗易?」  「宗及」  「道叱」  
                           「佐久間甚九郎」  

 となっており、問題は今井宗久に進上を命じて実際上申したのは「佐久間甚九郎」なので「今井宗久」
が「甚九郎」に頼んだのかということです。これはありえないのではないのかと思います。進上と上申が
言葉が違うのでそれがカギではないかと思います。 つまり、場所は
       「今井宗久所」
 で信長公は実際見に行っています。しかし主催は
       「佐久間甚九郎」
ではないかと思います。単なる列席者でなく主催した人だから、お茶をかき混ぜて渡す人だから 
翌日に信長公が

       『甚九郎数寄、事の外に上手なりと覚えたり。』

 と評せるのではないかと思います。テキスト〈甫庵信長記〉の脚注に

    『佐久間甚九郎   信盛の子、信栄。茶人として有名。』

とあり、一般の人が知らないだけで、もう名高い人だったようです。
 また「佐久間甚九郎」という名前がおかしいことは容易に感じられるところです。「額田王」とか
「柿本人麻呂」、〈吾妻鏡〉の「万年九郎」、〈甫庵信長記〉の「狩野又九郎」のようなものです。
 ここから上の、「?」の部分に甚九郎が入るのではないかとも考えられます。つまり

   〈信長公記〉・・・・・・  「宗久」 「宗陽?」 「宗及」 「道叱」
   〈甫庵信長記〉・・・・  「宗久」 「宗易?」 「宗及」 「道叱」
   〈甫庵信長記〉◆ΑΑΑΑ 崕ゝ廖廖 嵜啅縅此廖 崕ゝ據廖 崙纂検

 突然出てきて、納めどころのない、この「茶人として有名」な「甚九郎」はいったいいどこにはいるのか
というとやはり表記が違わせられている二番目に入れるしかないでしょう。「紅屋」といわれる「宗陽」が
この人の号かどうかは別として何か名前があるはずです。いまなにもわかっていないのだから、佐久間
甚九郎の号は宗陽であったとしておくしかありません。
 この三人の私宅に立ち寄った話は天正六年九月二十九日のことですが、与四郎が「折節(おり
ふし)」入牢している話は、この一年後、八月のところに出ており、甫庵のいう「宗易」が〈信長公記〉
の「宗陽」に変わった根拠がこういう事情があったともいえますが、〈甫庵〉には与四郎の入牢の記事が
ないようなので、どちらが合っているか判定が困難です。ただこのころ荒木と戦いの最中ですから、
利久が、秀吉に荒木との和睦を勧めたのが信長公は気にいらなかったとも考えられるので、ここ利久
のところへ立ち寄ることは考えにくいことと思われます。

(3)宗易
 千利休は主要文献で登場回数が少ない、〈信長公記〉では「宗易」で登場、天正三年十月廿八日、
「妙覚寺にて御茶下され候。」で「三日月の御壺」「松島の御壺」など出てくるところで 

       『・・・・・御座敷の飾
        ・・・・・
        一、茶道は宗易、各々生前(しょうぜん)の思い出、忝き題目なり』

 だけです。この記事は「宗易」が茶席を仕切ったと読むのが普通と思われますが、「御座敷の飾」
の中の一部であり、茶道具、茶、のあとの「茶道」なので「宗易の茶道」という意味ではないかと思われ
ます。「生前」も二つの解釈が可能でしょう。
 一方、〈甫庵信長記〉は二回だけで、その一回は先の「宗易?」のものです。 登場回数のきわめて
少ない「宗易」がなぜ「千利休」なのかということは〈甫庵信長記〉にもう一回、次の
        「作物記(ルビ=つくものき)の事」
 という題目で、年月日不詳の記事で「千宗易」と「利休」がくっ付いて出てくるのでわかるだけです。

     『或る時、●作物(つくも)の■茶入れ茄子の袋を、千宗易利休居士を以って▲藤重に仰せ付け
     られし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずやと宣えば、▼松永、茶の
     会席にて一覧申しつる。★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』

 この太字の表記が一件だけあるのでそうなっています。例えば「明智十兵衛」、「惟任日向守」が
あの「明智光秀」であることがわかるのは、
    嵬醒匳淑識劼魄塲て向になされ、」
   ◆崔闇塙餤技海砲動歿て向守光秀逆心を企て」
という記事があるからわかるのです。,任蓮嵬醒辧彑であることがわかるだけです。△一件だけ
出てくるので「光秀」というのがはじめてわかります。もし△里箸海蹐虫食いなどあれば困るところです。
 しかしそれは「丹波国亀山」とか「逆心」とかでわかるし、補助文献があるから結果的にはわかりますが
納得させるのは弱くなるのは否定できません。しかし事実は「明智光秀」は「惟任日向」です。ただ表記
が違うのでもう一人いるかもしれないと予想しておいた方がよい「太田和泉守」もそれを適用できる
場面があったということは既に述べました。「弥三郎」も同じです。
 この記事のおかげで「千宗易」は「利休」だと一般に認められているのです。すこしおかしいのは、
甫庵を偽書のような扱いをしている今、それを採用してしまうわけにはいかないはずです。しかし現に
これが生きているから、よほど重要なことが書いてあるのかもしれないとも思えます。いろいろ考える
にあたってこの〈甫庵信長記〉の記事をよく読まねばならないというのが直感できるところです。
 ●のルビ「つくも」といえば「九十九」というのは知られていることですが、このようにルビで出てくると、そこまで
意味はないだろうと思ってしまいます。しかし、あとに続く・・・・・・長い文のなかで

      『作物(つくも)は百に一、数の事、欠くこと有るを以って、古歌の意(こころ)に本づけて、
      以って作物(つくもの)と名づく。◎名を易ゆれども異論なき者乎。』〈甫庵信長記〉

 という文がありますから100ー(マイナス)1=99のことを頭に入れて、この文が書かれているという
ことがわかります。ここの古歌というのは、脚注では

      『古歌の九十九髪は「伊勢物語」の歌
      「百年(ももとせ)にひととせ足らぬつくも髪われを恋うらし面影に見ゆ」この歌からすればつくも
     髪は百から一をひいた白で白髪の意。』

 とされており、百引く一=白が「つくも」で「つくも髪」は白髪の意味で、これは別の意味があります
が、いっていることは深い意味があるので単に書き流しのルビを付けたということ以上のものがあります。
 ここでは(つくもの)を(つくも)と替えているので、一字を違わせることが大きな意味を持ちました。
◎を付けた太字の部分は、どういう意味かが問題であります。通常パソコンなどでは「かえる」「かわる」
の漢字に「易」というのは出てきませんが「不易流行」に見られるようにその意味があります。
「宗易」というのは「宗□」を意味するのかもしれません。ここで◎を二つの意味にとって、「つくもなす」
もかわった、人名もかわったということで、みたいと思います。「つくもなす」の方は、それはそれで
意味があり、ここの葉茶壷に関係してくると思いますが、ここでは人名の方を追っかけています。
 次の■「作物の茶入れ茄子」についてはテキスト〈甫庵信長記〉に脚注があり

    『「つくも」は珠光が九十九貫で手に入れ九十九髪(つくも髪)に因んだという。付藻茄子(つくも
     なすび)とも。唐物の大名物。この「つくも茄子」は本能寺の変で焼失したという』

 となっています。ここで重要なことの一つは珠光が利休と接近したことだと思います。珠光は「四畳半」
で利休と共通した印(しるし)をもっています。珠光のものは信長公が最高値で買い付けており、一休の
あとを引いた人ですが、一休は宗純というのに珠光は「宗」が付いていません。宗珠という人が珠光とするか
珠光の子息とするか、とにかくこの人の跡を襲ったのが「利休」かもしれません。利休と利久の二つの
名前は利久 ν久△梁減澆あるのではいかとも思われます。頼朝に頼朝,藩蠶△あり、,
義朝を表わす〈曽我物語〉のような述べ方です。木村又蔵〔畋舎蔵△あるのと同じです。紫式部
も紫式部,隼膽杏△諒賁爾梁減澆すでにほぼ確実性をもつて述べられているのと同じです。
「宇治拾帖」が紫式部△虜酩覆世蹐Δ箸いΔ海箸任垢、式部が40くらいのとき、その子は25くらいに
なっていて才は親譲り、またその薫陶をうけているわけですから可能性としては100%ですが、まあ
紫式部のイメージがすこし壊れるから多数決でそれはやめとこうとなっているのでしょう。
 利休にしても、年表では、天文六年1537(桶狭間23年前)
  
    『千利休京都で茶会を開催(資料松屋)』

 というのが出ています。今いわれている利休の生年からいうと15歳のときの話となります。いかに
天才といってもこれはむつかしい、利休 ⇒久△箸い親子があったとか、いわれているように三好
長慶の身内であったとかの事情があったと考えられます。まあこれは一世代前の利休ととるのが自然
だと思われます。親子の重なりを全然無視しているいまの歴史理解からは何も出てきません。
 先の天正三年十月廿八日、〈信長公記〉の茶席を仕切ったのは佐久間甚九郎ではないかと思われ
ます。この人物は隠されていたことがわかります。
  少しまえ同年八月十四日の〈甫庵信長記〉の記事と八月十五日の〈信長公記〉の人物羅列において
 
   『・・・・・佐久間右衛門尉、子息甚九郎、・・・・・』〈甫庵信長記〉

 

佐久間信盛の息甚九郎信栄より掟書A - Iが金. 森に発給された。 第二段階は、元亀元年(1570)九月から元亀二. 年(1571)九月までの、大阪より派遣された川那. 辺秀政を中心とする(金森一揆〉の一年間と、元. 亀三年(1572)正月から同年七月までの佐々木承 ... 書やIの佐久間信栄定書へと具体化したことにな. る。Iの「楽市楽座」の言葉は、次々といろいろ. な言葉や概念に発展していった。


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